お酒の適量は難しい。
嗜む程度に飲酒するということを知るには、自分の体がどのくらい飲酒すると、どのように反応するということを知らなくてはならないから、訓練が必要になってくる。
大学生が馴染みのない酒宴の席で、急性アルコール中毒になったという話は、毎年耳にする。
なかには強要されたのではなく、酒量がわからず泥酔することもある。それは、大人でもある。
占星術では、海王星、土星、金星なのだと思う。
楽しければまだいいが、そうは見えない。
海王星の衛星プロテウスにある衝突クレーターはファロスという名前がついている。ファロスは現代では灯台と訳される。
海王星にあっての灯台とはなんだろうか。
おそらく海王星を現実に落とし込むイメージの灯火ではないだろうか。
ファロスというと、おそらく世界七不思議のファロスの灯台。アレクサンドリアの大灯台を思い出されるだろう。
ファロス島にあるから、ファロスの灯台。細く曲がって突き出た形の島。
形のとおりファロスというのはギリシア語でペニスの意味だが、現代のようにそのものではなく、ファロス信仰を指している。モダンな宗教であるキリスト教や仏教などが魂の救済を謳う前、宗教は愛や繁栄を謳っていた。
六芒星やリンガヨニなどは、男女が結合した瞬間をあらわしている。つまり、その状態のエクスタシーが楽園。その産物の子孫が繁栄していくことで、永遠の命を得る。
つまり、これは世界各地に散らばっている男女二神の神話、天地創造の神話でもある。
雌雄の蛇は絡み合って後尾をする。蛇は龍でもある。このイメージは、二神のイメージと強く結びついている。タロットでカップ2にカドゥケウスの杖のようなものが登場するのは然もありなんである。
家のすぐ近くに修道院があり週末に子供と遊びに行ったりするので、キリストのことを最近は、イエス様と言っている。
十代の頃読んだ澁澤龍彦の本に確か、キリスト教はディオニソス信仰や土着の宗教をもとにしていて、これはお酒や農耕の神でもあるから、クリスマスとは、太陽の復活、冬至をあらわしているというようなことが書かれていた。
イエス様の誕生日は聖書にはっきりと書かれてはいなかったので、当時根強かったミトラ教の風習などと織り交ぜてキリスト教に取り込む思惑もあり、西暦325年にその時の冬至12月25日をイエス様の誕生日としたようです。
色々書いてきたけれど、古代人は私たちよりずっと宇宙や幻想、自然やエクスタシーの世界に耽溺していたように思う。
また動植物とも近かった。それは、宗教がそうである以前に彼らはそのような生活をして親近感があった。
占星術はそんな古代人の知の結晶だと日々感じている。
タロットや占星術はやればやるほど、そこに近づくような楽しさがある。
占いは知識が必要だが、古代人における動物的感覚、身体的感覚がそれをさらに面白くする。
レヴィ=ストロースの書いたものを引用してみると「野生の思考のもつこの全体把握の大望は科学的思考の手順とはまったく異なるものです。(中略)自分が宇宙を理解できるという幻想、宇宙を理解しているという幻想です。(中略)今日私たちが用いる知的能力の量は過去よりも少ないとも多いとも言えます。それに、まったく同種の能力を用いているわけでもありません。たとえば感覚的知覚の利用は明らかに少なくなっています。『神話論』の初稿執筆中に、非常にふしぎな問題にぶつかりました。真昼間に金星を見ることができる特別な部族があるらしいのです。(中略)西欧文化圏の航海術についての古い本を色々調べて見ました。するとやはり、昔の船乗りたちは真昼間に金星を見る能力を完全に備えていたらしいのです。」
昔、澁澤龍彦の本を読むに至った経緯は、当時、自分は変わり者だと自分自身で思っていて、孤独を感じていた。彼の本には変わった実在の人物がたくさん登場して、なんだ自分は物凄く平凡ではないかと、安堵したことがあった。そして、色々読み進むうちに古代人の自由さに触れたような気持ちになったことがあった。それは、とても開放感があり、たくさんドーパミンが出ていたように思う。それから、ダダやシュルレアリスムを知り、それにも開放感を覚えたが、同じような人も多く、刺激を求めて、はまりこむ沼のようにも見えた。
『うたかたの日々』の中にあるようにあまりに傾倒すると滑稽で、身をもち崩す。そして、その愛好家の中で形式ができてくる。それはファッションも一緒で、古着好きは、厳しく年代などを気にしたりする。ファッションというと自由なようだが案外そうではない。流行や容姿も同じで、目に見えるものは権威になりやすい。
十代の私が気にしていたのも、こういう見えない鎖のようなものだったのだろう。まったく違う文化や価値観というのは、その見えない鎖を解きほぐす効果がある。
占いは、古代人の宇宙全体を把握しているという幻想の産物であるかもしれないが、それは実に楽しい幻想で、いくらでも戯れることができる。自動車や飛行機を見ても、人はイメージしたことしか実現できないということがわかる。ここで羽を伸ばしてイメージと遊ぶといいと思う。